読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あのとき、あの人に伝えていれば

[今週のお題]私のタラレバ

あれは10年前の冬の日。

空はもったりと重い雲に覆われていて、今にも雪が降り出しそうな天気だった。

もし雪が降れば飛行機は飛ばないかもしれない。
それは彼が困ることになる。……でも私は、密かにそれを期待していた。

なのに、成田は冷たい風が吹くだけで、雪はちらつきもしなかった。

彼は、薄いジャケット1枚で保安検査場に向かおうとしていた。

──ずいぶん薄着なのね。

もう二度と会えないかもしれない人に向かって、私はなぜこんなどうでもいい言葉を投げかけているのだろう。
もっと伝えなきゃいけないことがあるはずなのに。

──向こうは常夏だからね。

彼の低い声には、かすかな笑いが含まれている。
こんなときに私がつまらないことを言って呆れているのか、それとも安堵しているのか。

私には、どちらなのかよくわからなかった。
彼の目を見ることができず、ジャケットの襟元ばかりを見ていた。

よく見慣れたアクアスキュータム。
紺地に、よく見ると臙脂の縞が入ったテーラード。
このジャケットによく合うエルメスのネクタイを選んだことを思い出した。今日の彼の首にそれはないけれど。

──気をつけてね。

治安も衛生状態も良くない土地に赴任する彼の身を案じて、私はそう伝えた。
彼は、「うん」とも「ふん」ともつかない返事を口の中で唱える。
それ以上の言葉は、彼の口から出ない。

私は視線を落とした。

 

ああ、彼に言わなくては。

 

──君も、元気で。

長い沈黙を破って彼は、彼も、ありきたりな言葉を告げた。

そうじゃないの、もっと大事な話があるの。

私は口を開きかけたが、彼は何かを振り切るかのように力強い足取りで検査場へと向かった。
途中、私の方をちらりと振り返り、足取りとは裏腹に力ない笑顔を見せる。

──待って!

私は彼を追いかけたが、彼の姿はすぐに人の波に飲まれてしまった。

 

ああ、あのとき、私が勇気を出して彼に伝えることができていれば……!

 

 

 

 

 

ズボンのファスナーが開いてるよ、と。